2019年8月7日水曜日

思っていることを書けるだろうか

自分に起こる気持ちを書き綴っておきたいと思うし、それが人の目に触れてほしいとも思う反面、言葉でどうこう言うのも言われるのも好きではない自分がいる。

TwitterもFacebookもやっているが、どうも最近は投稿するのも、見るのも、あまり気が進まなくなってしまった。
たまに見るとへええほおおとなるので、無理せずに使える方法を探していきたいとは思うのだが、、
無数に溢れ出す承認欲求の嵐を前にすると、また、気が萎えてしまう。
民放TVに出るタレントたちが我先にと自分を売り出す姿にはいつもぞっとさせられるが、SNS上の「自分見て!」の承認欲求や「あいつはこう間違っている!」と人を糾弾し、そして喝さいを浴びる姿には、これまたぞっとする。

自分は閉じているだけかもしれない。
ネガティヴな発言は出来るだけしたくないし、人から槍玉に挙げられるのも、否定されるのもとても嫌なことだ。
でも、それを超えてなお、言っておかないといけないことはたくさんある。
言わないでやり過ごすことで、後々大きな問題となって自分や周りに降りかかってくるようなことだ。
例えば政治的な意見。
最低時給すれすれで働く自分のような低所得者層にちっとも優しくなく、個人の自由と権利をどんどん狭めてくる安倍政権が大っ嫌いだ。
もういい加減、うんざりしている。
そして弱者の権利を最大限に擁護しながら斬り込んでいく山本太郎には畏敬の念を覚えてやまないし、早く野党はエゴを捨てて終結してほしい。

と、こう感情的に言い切って終わりに出来れば簡単だろうけど、自分の中ではそれだけではない、無数の思考が乱立している。
そして、当然、人の意見も人の数だけある。
安倍政権を支持する人と、山本太郎を支持できない人の話を聞けば、なるほどそういう面もあるかと感じる意見も当然あるだろう。

例えば目下、安倍政権下で加速中の日韓関係の悪化を例に書いてみる。
まず、自分の中にある一番大きな思考では、頭に血が上った両政府、そしてお互いに対する悪口ばかり報道するメディアの姿勢には負のスパイラルしか感じない。
自分から見ればそう見える。
右寄りの皆さんからすればこういっただけで左なのは承知の上で、さらに自分の見識を述べると、過去に凌辱された韓国からすれば消えない怒りがあるのは当然のことだと考えるし、賠償したんだからもうそれでお終い、という態度を日本が自ら取るのは間違っていると思う。
韓国国民ならば少なからずそう思うだろう。
けれどもだ。
そうは言っても、ずっとずっとお前を許さない、それではまだ足りないと言われ続けられる方としては当然、うんざりするし、日本も完全に疲れている。
韓国が過去の歴史で対外的に正しいことだけをしてきたとはとてもじゃないけど言えないし、申し訳ないけど、二律背反を感じざるを得ない。
そうなると、日本は急進化していくのは自明の理で、今起こっている通りだ。
負のスパイラルだ。

どんなに綺麗ごとを言ったって、過去を否定したって、どちらにも汚く他国を、そして自国さえ傷つけてきた歴史がある。
人も国も同じだ。
綺麗ごとだけを言って生きてこられた人間も国もないだろう。
反省し続けなければ歴史はまた、繰り返すだろうし、そして許しが無くとも、また、歴史は繰り返すだろう。
外交戦も防衛力も必要だと自分は考えるが、根源的な問題として、自国の汚点を反省せず敵を作る政府も、他国の汚点を許さず敵を作る政府も、相手に隙を与えるだけでどちらも自分には疑問だ。

仲良くするほうが当然お互いの国の庶民には実利があるし、現在互いに貿易している会社にとってこの状況は悲鳴しかないだろう。
パワーゲームに興じる周辺国をわざわざ喜ばせるようなこんな外交政策、長期的に見て何の得があるのだろうか。
甚だ疑問だ。

だから、言い切るのではなく、Win-Winでいるためにこそ、寛容が、今、自分を含めた人みんなに必要なものだと思う。
そのためには人の話にちゃんと耳を傾ける文化が成熟してほしいし、自分に無い意見を吟味できる寛容性がほしい。
だからこそ人々が寛容であれるために、公共の社会は中立性を保つ努力をしなくてはいけない、と思うようになった。
少し前までは自分も人の意見はお構いなしの人間だったから、偉そうなことは可能な限り言いたくなくない。
が、その変遷と受容こそが経験なんだろう。
それを踏まえた上で社会の公共性を保つためには、各個人が可能な限り中立的な意見を出し表明した態度の、その真ん中を取っていくことが大事なのだと思う。
音楽を自由にやり続け、意思を表明し続けるためには、自由を担保してくれる中立の社会が必要なのだと気がついた。
恐れ過ぎずに、そして、盲目的にならずにいけたらいいなと、今日思った。

そうすれば、少しは書けるかもしれない。
そんな雑記。